昭和45年8月25日 朝の御理解               (信太郎)

御理解第1節   今天地の開ける音を聞いて目を覚ませ





 今天地の開ける音を聞いて目を覚ますという事は、どういうような事だろう。真の道を行く人は、肉眼を置いて、心眼を開けよという、御神訓の中にありますよね。真の道を行く人は、肉眼を置いて、心眼を開けと。昨日、2時、2時半頃からでしたか。吉井の熊谷さんの所の、熊谷さんの姑親になられますお母さんですね、の式年祭がございました。皆、娘達もです、いわゆるそのおばあちゃんのお孫になられる方達が、皆集まられまして、有り難い御霊のお祭りがございました。お祭りが済んで、御直会を頂かせて頂いておる席上で、色々な話が出ましたが。一番上のお姉さんが、福岡の大学の先生です。いわゆる、大学教授をなさっておられる方の奥さんになられる。(   )お話を、それが、お茶を上げますけれども、お茶をぜんぜん上がられません。お神酒も、それこそ一滴も頂かれません。だいたいは、お神酒も好きだと言われるんですけれども。色々お話を聞かせて頂いておりました。もう、私はお茶を断ちまして21年になりますち、お茶を断って。お神酒を頂かなくなって、もうやっぱ、もそうだと。頭はこの、パーマをかけないと決めて、それは御主人が(そうし)を受けられたその年から、あの、髪のいわば手入れ、そういう手入れをした事がない。本当に、ものすごう、まあ、言うならば意志の強い方なんですね。もう、その、ですから、他の話もそれと同じような意味の事をね、もう、頑固だから、悪く言やあ頑固とでも申しましょうかね。良う言やあ、意志の強い方という事になります。私はこの、茶断ちをさせて頂いて21年になりますが、ね、別に何様とか拝んどるちゅう訳じゃない。けれどもね、それ以来、全ての事が良い方へ良い方へと、良い事になって参りますと、こう言われる。ね。私は今朝、改めて、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと。この御理解を頂いてですね、もし、その方が、いわゆる今天地の開ける音を聞いて目を覚まされる事になったら、どういう素晴らしい信心が出来られるだろうかと、私は思いましたね。けども、やっぱそういう方は、そういう方でもその、思い込みが強いですからね。もう、何様神様を拝まんでん、こげんすりゃ幸せになる、良い事だけしか起こって来んといったような思い込みです。ですから、今度、例えば無理に、例えば、なら、お茶でも上げてですたいね。昨日、済んですぐ、(おおす?)を入れましたが、(おうす?)も頂かれません。けれども、その、やっぱり若い時に、いわばお茶の稽古もなさってたんでしょう、お茶碗の感賞やらはなさいます。ね。とても、それは絶対頂かれません。他の方達が、お酒を召し上がっておる時でも、まあ、それを別にお付き合いしておるのが困るといったような風でもない。もう、なかなか、まあ、社交的でもあんなさるですけれども。そういう強い意志というか、そういう話を聞かせて頂いてから、あの、おそらく一生、お茶の味も分かられんだろう、お神酒の味も味わう事も出来なさらずに終い、あの調子だったら終えられるだろうと、私は思わせて頂いたが。もう、素晴らしい長所であり、もうどうにも出けない欠点ですね、と言うてお話したことでしたけどね。けれども、確かにお茶を断っておるとを止められたら、それこそ良い事、良い事が起きて来るという、その良い事が、ガタガタとおそらく崩れてしまうでしょうね、やっぱり。そういう、人間の、この念というようなものは、言うなら幸福をを支配するようなものを持っておりますね、思い込みというものは。そこで、お道の信心を頂いて、いわゆる、ね、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心。万物を見て道理に合う、道理に合うことをです、ね、信念させてもらい、思い込ませて頂いたら、それこそ、自由(褐炭?)、自由無碍。もう、それこそ素晴らしいおかげが、限りなく頂けれる事だと、私は思います。まあ、何も別に信仰はしてないと言われるけれども、やはり、それを信仰して。もう、その方の信仰なんですよね、茶を断つ。だから、何者かにその誓いを発てておる訳ですね、自分の心に、誓い発てておられるだけではない、何かに。それがですね、その、やはり天地に響くと言うか、そういう例えば奇跡的なおかげも呼ぶわけです。けれども、それは、もう実に人間をこまくしてしまう訳ですね。自分の住まう世界というものを小さくしてしまう訳です。ね。お茶でもお酒でも、ね、神様が私どもの、言うならば命のために与えて下さる物を、飲まん、頂かんと、これを言うのですから。ちょうどお祭りが時間、それこそ時間励行で、7名を、熊谷さん共に7名でしたか。皆集まられました。一番はじめに、御長男の範雄さんに奥さんがやって来て、そこで、そこを出ましたら、ちょうど恵美子さんが見えとります。はあ、範雄さんお勤めですから、今日は出けなかったばいなと思うとりましたら、(あれも?)すぐ見えました。そん時に、何か知らんけれども、もうどうにも出けんくらいに、私は感動いたしましたね。まあ、その事を私、零歳を終わってから、まあ、皆さんに聞いて頂いたんですけれども。どういう訳であっただろうかと、こう私は思う。ね。言うなら、一昨日、皆が娘さんで、範雄さん一人が息子さん、一人息子さん。その、おばあちゃんの霊祭をされるのに、何と言うても中心になられる範雄さんが、言うなら会社を休んで、夫婦で、親子三人でやって見えておられます。まあ、これを俗に言うならば、今日のお祭りを受けられる、おばあちゃまが喜ばれたのだろうと。嫁さんが見えた事を御霊さんが喜ばれたのだろう。私は範雄さんの顔をチラッと見ただけで、大変感動を受けた。ね。けれども、それは決して、御霊様の喜びという事ではなくてね、言うならば、天地の親神様がね、お喜びになったんだと。ね、天地が感動ましましたんだと。人間の一番の幸せを感じるのは、ね。例えば、んなら、皆が神様を拝むと言うても、どうぞこうして下さい、ああして下さいと言うて拝むのではなくてです。ただ、ね、謙虚な心で神様を拝む、拍手をする。ね。もう、その条件がない。大変、小さい時にお世話になったおばあちゃんの式年祭に、ね、いわゆる孫達が、またはひ孫までが集まって、ね、おばあちゃんの御霊様の前に手を合わせる。心から頭を下げる。そういう、例えば心の状態というか、ね、姿。いわゆる、頭を下げるという謙虚な心。合掌するという、拝むという心。ね。私は、何と言うても、どのような素晴らしい豊な生活をさせて頂いても、このくらい素晴らしい優雅な生活はなかろうと。人間が人間を拝める。ね。一切のものが拝まれる、一切の事が拝めれる。ね。家族中の者が拝み合うて行けれる。一切の者が天地の親神様の御恵みのものとして合掌する姿勢、拝む姿勢。ね。それは、人やら物だけではない、事柄までも合掌する。昨日の御理解にもありますね。合掌して受ける。ね、受け方、頂き方という事です。私どもが、ね、道理を分からせて頂くと、これは黙って受けるという事の方が本当だと分かって、それを受ける稽古を一生懸命しておると、だんだん、その、肉眼を置いて心眼を開けと仰るように、心の眼が開けて来ると、頂くだけではない、拝んで受ける事になる。いわゆる、頂く事になる。ね。ただ、受け方だけではなくて、頂き方が出けるようになる、全ての事柄でも。ね。いわゆる、難儀な問題でも、ね、合掌して拝んで、それを頂く事になる。ね、そういう生活こそ、私は最高の人間の、いわば優雅な生活。もう、皆さん、お医者さんの奥さんとか、ね、大学教授の奥さんとかという風に、まあ、大変な恵まれた生活はしておられる方ばっかりなんですけれども。より優雅な生活をさせて頂く為に、全ての拝めれる心の状態。それはちょうど、今日皆さんが御霊様に、ね、真心を込めてお供えをなさった。おばあちゃんが、色々好きだったからと言うて、銘々がお供えを持ち寄って、お供えをなさった。おばあちゃんの御霊の前に、心から謙虚に合掌された。または、地を低うして拝まれた。ね。それがそのままね、私はそういう人間の姿を、天地が、いわゆる天地の親神様がお喜びを下さる。ね。そのお喜びがね、私は、私の今日、範雄さんをチラッと見た瞬間感動したのは、そういう天地の親神様の感動を、私を通して下さったんだ。その、天地の親神様がお喜び下さるのですから、私どもも幸せを頂くならばです、なおさら、御霊もより安心の御霊としておかげを受けられる事であろう。どんなに遺族の者が御霊様を大事にしたから、御霊が助かる、喜ぶというのではなくて。その、そういう姿勢、そういう姿。ね、拝む心。ね、地を低うしておる心。しかも、それには、拝んだから、ね、地を低うしたから、これを下さいといったようなものでは、さらさらない。ね、そういう姿を天地が感動をまします。天地の親神様がお喜び下さる。そのお喜びが、いわゆる、おかげになって現れたり、御霊は安心の御霊としてのおかげを受けられる。死んだからと言うて、神の世話にならん訳には行くまいがと仰るように、神様の言うならば、御守護、お守りの中に御霊様もあるのであるから。神様のお喜びが、御霊様の方に分け与えられないはずがない。ね。普通、そこんところを御ほうじをしたり、御霊祭りをしたり。はあ、御霊さんが喜んでござろうと言うけど、なるほど喜ぶ。ね、神様が先ず喜んで下さる。神様が感動まします。ね。いかに、まっ、天地の親神様の機感に適う、いわば在り方というものが、有り難い事かという事が分かるでしょう。ね。今天地の開ける音を聞いて目を覚ますという事はね、そういうような事がね、分からせて頂くという事だと思う。もう、お茶断ちを21年もさせて頂いておるから、良い事が起きて来る。ね。なるほど、良い事が、また起き続けるかも知れません。けれども、それは自分自身というものを、いよいよ窮屈に、とうとうお茶の味も知らんなりに終えんならんというようなです。これではね、金光様の御信心じゃないのだ。金光様の御信心はね、それこそ、神様が与えて下さるお恵みの物一切を、ね、十分に頂かせてもらう事こそ、神の喜びである。信心には、やはり、その、まあ、ある意味では執念にも似たようなでしょうかね。一生懸命の修行が成されなきゃならん。私達が改まると言うても、ね、例えば、その21年間も茶断ちをしておるといったような、そういう一念を持ってです、改まらせて頂く事になったら、素晴らしい事でしょうね。私は一生、お茶を飲みませんといったような事ですらです、その思い込みが段々出けて参りますところからです、良い事が起きて来るのですから。いわゆる、自分の思いが、いわゆる、そういう一念を燃やすとね、そういう事が出けれるような事も、これは事実だと、私は思います。ね。けれども、それではね、いわゆる真の信心にはならない。ね、信心する者が、いわば肉眼を置いて心眼を開かせて頂く時に、そのような窮屈な生活といったようなものをです、神様は喜んで下さるはずがない。自由、ね、自由闊達と申しますか。ね。自由自在な有り難い世界に住まわせて頂くということ。それがね、いわゆる、今天地の開ける音を聞いて目を覚まさない限り頂けん。ね。そこに、私は教祖金光大神が教えて下さる、ね、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心という、道理に合う信心。ね。お茶を21年も断っとるからおかげを頂くといったようなのは、どんなに考えたって、道理に合わないでしょう。ね。道理に合わないけれども、そういう思い込みの強い人はです、一つのその思い込みがね、良い事をいわば構成して行く。ね、作って行く訳なんだ。悪い事を例えばして、心に呵責、心の呵責、良心の呵責を受けながら生活をしておる人が例えばあるとすると、それは、いつも心の中にね、何か悪い事が起こりだんせんだろうかという思いが強うなって来て、本当に悪い事が起こって来るようなもんです。ね。昨日、これには、作る大工はおらねども、己が作りて己が(のみなり?)です。ですから、それと反対の事が言える訳です。例えば、お茶を飲まないという事が、決して良い事じゃないですよね。(ぜにこう?)じゃないでしょうが、お茶を飲まないと、という。ね。それは、親が見とっても術ないですね。おそらく熊谷さん辺りが、その娘さんのその生き方を、本当に執念にも似たその強さというものは感心されてもです、本当にこの人ばっかりは、哀れな人じゃなと、親は本当の事が分かっておればおるほど、そう思われるだろうと思います。神様がご覧になったら、なおさらのこと。ね。けれども、その思い込みというものは強い。例えば、それも言っておられました。ある、自分が心に言うならば、まあ、悪い事ですよね。いわば、心に人間ですから、(ぶちほう?)が出けないはずがありません。それを境にです、ね、そのお詫びの印にといったような事から、その、ような、そういう事をなさったといったような意味の事を言うておられましたが。ね。その替わりに茶を断ちますという事になって来た。ところが、そういう一念を燃やし続けて21年間。おかげで、良い事ばかりが次々起きて来ると、こう言われる。ね。ところがね、それは、天地の道理に合わない。ね。それは、自分の心がそういうものを捻出して行くかも知れんけれども、神様に頂くというものではない。自分で作って行くようなもんだ。ね。だから、それは、いわば天地の徳、御信用といったような事にはならない。私どもが目指すところは、どこまでも、ね、神様のお心がわかり、神様のお心に添い奉る生き方。そこに、神様の御信用を嫌が上にも頂かせてもろうて、おかげを頂いて行こうというのが、金光様の御信心ですね。その事で、範雄さんと色々、まあ、討論のようにお話しておられました。そういう生き方がね、本当はつまらないという事を、範雄さんが色々、いいんや、私はこれで一生行くち、というような風に、もう言うておられました。だから、それは素晴らしいこと。けれども、まあ、そうそう仰いますなと。けれども、より本当な事があったら、切り替えれにゃいけん姿勢がいりますよち。ね。ちょうど、あの、(野田さんの?)恵美子さんが立ち上がって、あの、お手洗いの、長いお手洗い鉢の水をこう石にかけておりましたから、立ち上がって。それで、ほら、あれをご覧なさい。あれは誰の句でしたでしょうか。水打てば石より風の起こるけり、ですかね。水打てば石より風の起こりける。ね。私はそういう心の状態というものをです、私は今日は、優雅と先ほどは申しましたんですよと言うて、その水をかけておる。水をかけたからって言うて、そこから冷たい風が起こって来るはずはないのだけれどね。けれども、見た目にです、その、水を庭の石に水をかけておる。ね。それで、やはり冷やっとするような、涼しいような、本当に石から風が起こるような、そういう見方なのだ、そういう考え方なのだ。そこに私は、本当の深いと言うか、ね、ゆとりのあると言うか、優雅なと言うか。そういう生活が営まれる。自分が茶を断ってるから良い事が起きて来るといったようなものではなくてです。ね、神様のおかげを頂いて、神様のお恵みを頂いて、道理に合う生き方をさせて頂いておれば、あれも整い、これも成就して行く。とにかく、ある物は有り難いもん。一切のものが拝まれる。一切のものの前に頭を下げる。ね。お姉さんという方が、非常にこの家柄を言われるらしいですね。ああ、昔、やっぱその熊谷と言やあ、ずいぶん家柄のお家らしいです。ですから、もう実に家柄。言うなら、人間を軽う見る。言うならば、そういうところが、お姉さん、僕はアンタの一番好かんち言うてから、いっぺん(不機嫌?)で言っとられる。ね。確かに熊谷には、そういうところがある。冷たい、冷淡な。何とはなしに人を軽う見る。高ぶってる。そういうものが、熊谷にはあると僕は気付いてからね、もう、僕はこの、もうその事に一生懸命焦点を置いて修行したて。もう、そりゃ範雄さんという人は、もう、こげん素晴らしい人はないです。ね。その、心が美しいです。もう、本当にいわゆる、人を見下げたり、そういうのも全然ないです。だから、もう兄弟で、何と言っても範雄さんが一番ですよと言うて、話しましたら、その範雄さんがそう言われるんです。僕は、その事を、熊谷の上にはこういうめぐりがある。私は熊谷さん辺りでも信心がなかったら、そうじゃないかと思いますね。何か、言うなら冷たい、人を見下げる。そういうものが、確かにあるようです。範雄さんは、それを、それを、いわば気が付いた訳です。それで、こういう事ではいけんと思うて、もうそれこそ一生懸命で、それに精進させて頂いたらね、いわゆる、まあ、何と言うんですか。私が見てから感じられる、本当に良い人、美しい人。ね。というような人格がそこに生まれて来たんです。ね、だから、こういう気持ちをね、熊谷の家からは、もう取り除かにゃいけんという事を、まあ、他の兄弟達にも、その、言うておられますけれども、なかなかね。お金はあるし、器量は良いし。やっぱり、そん(豊ぶろう?高ぶろう?)ともあろうと思うくらいに高ぶってありますですね、やっぱ。ね。けれどもね、それではね、私はいわゆる、その、今日私が言う、より優雅な生活に入る事は出けない。ね。いわゆる、私がはじめ申します、天地の親神様のお喜びというのは、それこそ、下さいと言うて拝むのではない。無条件に拝む心。しかも、人を拝む。ね、夫婦なら夫婦が拝む。親子が拝み合う。ね。自分の関係のある限りの人達を拝むというような姿勢が、信心によって段々育ってくる。人だけではない、物も事柄も拝むという。それを、神様が、それこそ感動まします訳です。その感動が、こちらへも伝わって来て、有り難い、勿体無いの生活が出けて来る。ね。もちろん、それには、いわゆる道理に合う信心をさせて頂いて、肉眼、いわゆる、受け方から頂き方が出けるようになり、肉眼をおいて心眼を開かせて頂くところから、拝まなければおられないものが生まれて来る。ね。そこで思うですね。私どもが、今天地の開ける音を聞いて、この目を覚ますという事は、ただ金光様の御信心を頂いておかげを受けておるから、目を覚ましておるととは思われない。私、今日は御神前で、このくらいばっかりの皿に、塩を盛ってある。ちょうど何か、何かを清める為に置いてあるという感じですね。塩で、これを、例えばお葬式なんかに行った、帰ると今でもそんな事をなさる所がありましょう、塩をまかれるですね。塩をまくという事は、清めるという事です。また、塩という事はね、一生懸命という意味もあります。ね。もう、死ぬるを保つと、例えば、いう風に書いてみると、その塩の意味が分かります。一つの改まりという事でもです、その、例えば熊谷さんの娘さんが、21年間も例えば茶を断たれたといったような一生懸命なものがです、ね、これは、神様がお喜びにならない事を改まるという事なんです。お茶を断てという事じゃない、そげな事は神様が喜びなさらん。けど、自分の心から、そういう一生懸命を持ってです、ね、一生懸命を持って改まらせて頂くというような信心からしか、肉眼を置いて心眼を開かせてもらうというような信心は分からない。まあ、言うならば、天地の開ける音を聞いて目を覚ませと仰るが、ただ、拝んどりますというだけじゃ、道理が詳しゅうなって、おかげは頂いて行っても、いわゆる、目が覚めたようなおかげにはなって来ない。ね。昨日、私はそういう話をさせて頂いて、本当にそういう信心が、金光様の信心に向けられたら素晴らしかろう。それこそ、天地の開ける音を聞いて目を覚まされる事であろうと。と、思わせて頂いたんですけれども。そういうものが、私どもには、かげておる。ね。一生懸命と言うても、すぐ、それが崩れる。ね、その崩れるようなところから、肉眼を置いて心眼を頂かせてもらうような事は、出来もしますまい。とにかく、私どもの信心生活というものがです、ね、本当に優雅なね、生活。より優雅に生活させて頂く為に、すべての物が拝めれるということ。ね。すべての物の前に、人の前に、いわゆる地を低うして行けれる生き方です。それこそ、石です。ね、自分の心。自分の心から有り難いものが湧き上がって来る。石より風の起こりけりである。ね。何とはなしに自分の心から有り難いなあと、勿体無いなあというものが、こう湧いて来るほどしの、私はおかげ。お恵みを、水をかければかけるほど、おかげを頂けば頂くほど、そういうものが、自分の周辺に、自分の一家に漂うて来る。ね。そういう生活を目指して、いよいよ、今天地の開ける音を聞いて目を覚ませと仰せられる、目を覚まさせて頂けれるおかげを頂いて。神様の同じ修行でも、喜んで頂けれる修行に取り組ませて頂かにゃならんと思いますね。どうぞ。